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11月23日 東京でも「就活くたばれデモ」を!

010年11月23日、札幌、大阪、松山にて現在の就活に対する不満を主張する「就活くたばれデモ」が行われる予定です。

私は先日まで「いいなぁ東京でもやってくれればいいのに」と指をくわえて眺めていました。しかし、各地でデモが行われるのに東京で行われないのはおかしいという変な東京プライドからデモを企画・運営することにしました。


11月23日、東京でも「就活くたばれデモ」を行いましょう!


札幌、大阪、松山に続け! 東京近辺に住む皆様も一緒に現在の就活制度に対する不満をぶちまけましょう。




以上、簡単ですが「就活くたばれデモ@東京」実行委員会の立ち上げとさせていただきます。詳細は追って当ブログにて連絡します。
デモの企画・運営を手伝ってくれる方がいましたらプロフィールに書いてある連絡先までご一報ください。



※「就活くたばれデモ」ってそもそも何?という方は下記の文章を参考にしてください。昨年、北海道で「就活くたばれデモ」を主催したO滝さんの文章で、就活を取り巻く現状について理解しやすいと思います。


「就活くたばれデモ」――「就活」を取り巻く構造的問題と違和感


「就活くたばれデモ」が行われた!
 昨年、2009年も終盤に差し掛かった11月23日、勤労感謝の日。20名弱の若者によって「就活くたばれデモ」と題した街頭デモンストレーションが北海道札幌市中心部で行われた。彼(彼女)らは、大通公園や札幌駅前通などの公道を歩きながら「就活なんか茶番だ」、「就活は金がかかりすぎだ」、「生きるための仕事をよこせ」など、就職活動に対する不満を主張する内容のシュプレヒコールを叫び、道行く人々の関心を引いた。
 このデモは、学生自身が「就活=就職活動」のあり方に対する問題提起をしたということの意外性からか、インターネット上の掲示板やブログなどで大きな話題を呼んだ。もちろん、そこでの取り上げ方には賛否両論があったのだが、ともかく話題を呼んだことで、社会に対して問題提起するデモ本来の目的は大いに達成されたと言えるだろう。

 と、まるで客観的な報告記事のように書いてみたが、実はこのデモを企画した張本人はこの文章を書いている僕(大滝)と、僕の通う北海道大学の学生を中心としたメンバーである。では一体、なぜ就活に異議を唱えるデモを行ったのか、そもそも就活のどのような問題点に抗議をしたかったのか。ここではそれについて、簡単に説明させていただく。

強迫的な「就活広告」
 僕がこのデモを行うことを決めたのは、主に以下のような理由による。漠然とした書き方をすれば、それは就活に関する「批判的な言説」を確保したかったということである。どういうことかというと、僕は就活に関する「言説の不均衡」に対する不満があったのである。昨今、大学(ここでは主に北大について書く)の中には就職活動に関する膨大な量の情報が溢れているが、その内容が「偏っている」ことに非常に問題意識があったのである。
 どう偏っていたのかというと、こうした情報はすべて「就活というものを前向きに捉える」という前提に立ったメッセージを抱えたものなのである。北大で就活に関する内容のチラシやポスターを探そうとすれば、特別な苦労はいらない。「キャリアセンター」(いわゆる就職支援課)に行って、関連するチラシを請求せずとも、各学部の窓口前に平積みされていたり、学内の掲示板に大きなポスターが何枚も貼ってあるのが、嫌でも目に付くからである。その内容は実に多彩で、リクルートや毎日コミュニケーションズといった企業の運営する就職情報サイト(リクルートは「リクナビ」、毎日コミュニケーションズは「マイナビ」)の宣伝から、企業や官公庁の採用情報に関するチラシ、説明会や学内ガイダンスの告知などなど。さらに学生の運営する就活サークルの情報やイベントも枚挙にいとまがないし、資格試験予備校の案内も「就活」関連の情報と見ることも可能である。
 こうした過剰なまでの情報の洪水は、もはや強迫的といってもいいぐらい継続的な刺激を学生に与えているといえる。これは別に就活に限った話ではないのだが、大量の広告が溢れる空間で生活していれば、そうした情報は自然と目に付くようになる。商品の広告であれば、それを目にした人を潜在的な消費者にするし、就活に関する情報であっても同様である。そのため、大学で生活をしていれば、学生は就活について意識せざるをえなくなるというのが、いまの大学における現状なのである。
 しかし、そのように就活に関する膨大な「広告」が溢れているにも関わらず、その内容は非常に画一的である。なぜなら、一見多様に見える「就活広告」は全て(といって差し支えないと思うが)就活というものを肯定的に捉えているという点で共通しているからである。もちろん、誰も彼もが、就活というものに対してポジティブな感情を抱き、前向きに取り組んでいるのであれば、そうした「前向きな就活を」式の言説が溢れていても不思議はない。しかし、実際はそうではない。むしろ、就活について不満を抱いている者が多く、実際に就活というものが問題含みであるにも関わらず、不思議と就活に関する言説は画一的なのである。

誰だって就活が楽しいわけじゃない
 それについて書く前に、少し横に逸れて僕の話をさせていただく。僕は現在大学の四年生だが、訳あって三年生の時に就活をしなかった。訳といっても大したことではないので簡単に説明すると、僕は三年生の時に北大などの大学生が中心になって活動している野宿者(ホームレス)支援団体の活動に関わっていたのだが、その活動が忙しく、とても就活まで手が回らなかったため、就活自体を先延ばしにすることを決めたのである。もちろん、忙しい中でも、なんとか頑張れば就活とその活動の両立ができたのかもしれないが、「急き立てられるように卒業してしまうこともないだろう」と考え、じっくりと好きなことに打ち込めるように休学という選択肢をとり、就活を一年後回しにすることにしたのだ。こうして2009年4月から一年間休学する事にした僕の卒業は2011年3月になった。
 一方で、卒業時期を延期した僕とは対照的に、同じ年に入学した同期の友人達は、三年生の秋ごろから、就活に勤しみ出した。リクナビやマイナビなどの就活情報サイトに登録し、自己分析を受け、企業研究セミナーや説明会に足を運ぶ。履歴書やエントリーシートを準備し、試験や面接を受けに行く。そんな定番のような就活を周りの友人達はしていた。私自身も、その時点ではあまり就活というものについて考えず生活していたので「来年になったら自分も同じ事をするんだろうなぁ」などとぼんやり考えていた。当時の僕が就活に関して抱いていた不満と言うのは就活の早期化(「就活の始まる時期が早すぎる!」)に関するものぐらいだった。
ただ、その頃に就活に取り組んでいる友人達と接しているうちに、だんだんと就活というものの抱える問題点のようなものを意識させられるようになった。僕が就活についての話を振ると、友人達は毎度様々な不満を漏らしていたからである。
 例えば、「選考の際にコミュニケーション能力というものを重視されるのだけど、それがどういったものかよくわからない」、「面接に行く際の交通費はほとんど自己負担なので、経済的な負担が重過ぎる」、「就活の始まる時期が早いせいで勉強に専念できない」、「自分に自信がないので自己PRを書けといわれても困る」、「新卒で就職できなかったら、不安定なフリーターになるしかないのでは、と考えると不安でしょうがない」。
 彼(彼女)らの直面している苦悩というのは非常に深刻そうだった。しかし、ここで重要な点は、彼(彼女)らの抱えているそれは現行の就活システムの抱える問題に起因しており、決して個人の問題に還元できないところで起こっている部分が大きいということである。
 先ほども書いたが、僕自身は元々野宿者支援の活動に関わっており、雇用や労働、貧困や福祉などの問題に関心を持っていた。そこで得た知識を元に考えると、彼らが直面している問題というのは、日本の雇用システムの歪みや不合理な慣例、ひいては新自由主義的な改革の及ぼした格差の影響などを被っているように見えた。それは「仕方がないよね」といって片付けられるような問題ではでは決してない、と僕は思ったのだ。

就活の現状は「仕方ないもの」ではない
 多くの大学生は、現在の就活を取り巻く状況をどこか所与のものとして捉えているところがあるが、必ずしもそうとはいえない。たとえば最近の大学生は、学部三年生の秋ごろから就活を始めるが、就活の開始時期がこれほど早期化したのは、かつて大学と企業の間で結ばれていた「就職協定」(「内定は四年生の11月1日以降」とされていた)が1996年に廃止されてからである。これを復活させる事によって就活時期の早期化を防ぐということは決して非現実的な話ではない。これ一つとっても「就活の現状がこうなっているのは仕方ない」と言い切れるようなものではないと僕は思う。
 また、「在学中に就活をしなければいけない」ということ自体についても、批判的に考えることが可能である。海外では大学在学中に就職活動をするということは決して一般的ではないからである。たとえば、ヨーロッパなどでは学生は大学を卒業した後、それぞれ好きな時期に求人情報を頼りに個別に面接や試験を受けるという場合が多い。ではなぜ日本では、大学での勉強をおろそかにしてまで、就職活動をするのか。それはこの国で「新卒一括採用」もしくは「新卒至上主義」というシステム(雇用慣行)が浸透しているからである。
 これは終身雇用を前提とした年功序列制度と一体となって「日本的経営」などと呼ばれ、一時期海外でも注目されていたものである。要するに、新しく大学を卒業するもの(新卒者)を企業がまとめて雇用し、教育していくという方式である。かつては、こうした仕組み自体が奏功したこともあったが、現代では必ずしもそうとは言えなくなっている。しかし、新卒至上主義とも呼ばれるように、「既卒よりも新卒」という風潮(企業文化)はさほど変わっておらず、それに合わせて、就活のレースも横並びで始まることになっているのである。
 このような新卒一括採用方式は、一方で新卒生に有利なように見えるが、他方で新卒時に正社員の働き口を確保できなければ、その後の挽回が難しいということも意味している。バブル崩壊後の「就職氷河期」に卒業を迎えた、いわゆる「ロスジェネ」世代の多くが低賃金で不安定な非正規雇用労働者として生活せざるを得なくなったのは、この新卒一括採用(新卒至上主義)と終身雇用に基づく年功序列制度(これを維持するために大量の非正規雇用が導入された)の持つ排他的な性格の影響といって差し支えない。このように、たった数年卒業年度が違うだけで、その後の人生に大きく影響を与えてしまうというシステムはどう考えても不合理である(これが「世代間格差」の実態である)。そして新卒一括採用(新卒至上主義)がまかり通っている以上、大学生達は自分の適性さえも分からず、十分な社会的経験も積む前から、就職のための準備に奔走しなければいけないのである。学生の本分であるはずの学業に専念することさえできずに。

 そのほかに、地域格差についての問題も甚大である。現在、東京を中心とした関東と他地域との格差は求人倍率などで如実に表われているおり、就職に際して地方から上京するものは多い。その際に関東近辺に住んでいる者と、札幌のような地方都市では、情報の面でも経費の面でも大きな差が生じてしまう。就活における面接は、回数自体が多いにも関わらず(3~5回ほど)、企業側から交通費が出ないことが多いため(特に景気の悪い年)、この経費は自己負担となってしまう。札幌での就活デモに参加したメンバーの一人は、就活を通してどれだけの出費があったかについて、「交通費、宿泊費、食費など合わせて、車の免許が取れるほど(30万円ぐらい)」と語っていた。
 特に今年のように競争が厳しく、就活自体が長引いてしまった場合には、こうした費用が捻出できるかどうかがという事が、就活自体の成否に関わってくる。早い話が、その学生が優秀かどうかという、最も問われて然るべき問い以前に「面接に行く金がないから内定がもらえない」ということも十分にありうるのである。

 「就活に対する不満」が表に出てこない気持ち悪さ、危機感
 就活の問題点について、思うままにいくつか挙げたが、他にも「コミュ力(=コミュニケーション能力)」、「人間力」といった曖昧な評価基準によって行われる採用選考など、問題点はいくらでもある。ともかく、ここで僕が主張したいのは、就活というもののあり方は必ずしも自明のものではないということであり、それは個人の問題として還元できない要素をも孕んでいるということである。そもそも多くの人が就活に対して(何かしらの)不満を持っているとしたら、やはり何か構造的な問題があると考えるのが自然であろう。

 そうした構造的(社会的)問題を意識するようになった僕は、就活の現状を肯定的に捉えた「広告」ばかりが目に付くという大学の状況に危機感を抱くようになった。それは、一つに先ほど述べたように「誰もが問題意識を抱えているのに、それが表に出てこない」という不自然さによる。そして、もう一つに「構造的・社会的な問題があっても、それが全く指摘されなければ、個人的な問題に還元されてしまう」という危惧に由来した。昨今の貧困の議論では、構造的な問題が見えづらかった(隠されていた)ために、ワーキングプアやホームレスといった状況が「個人の努力不足=自己責任」とみなされることが多かった。それが変わったのは、野宿者支援の現場で活動する湯浅誠などが、そうした貧困状態を生み出す制度的な問題について告発するようになってからである。つまり、構造的な問題というのは、注意しなければ「当たり前」と捉えられ、不可視化されてしまうことが珍しくないのである。
 そして貧困が自己責任だけでは割り切れない問題を抱えているのと同様に、就活における成否にも自己責任では割り切れない問題点が多分にある。それを告発することは重要ではないかと僕は考えたのである。実際に、就活のセミナーや学生の就活サークルでは「就活を通して自己成長」、「積極的な就活を」といった、あくまで個人の意識の問題として就活を捉えた言説は少なくない。
 よりによって、社会の問題を専門的な知見から正すはずの大学が、就活における「常識」や「慣例」を再生産する場と化しているとすれば、それは危機的なことではないだろうか。そうした問題意識から、僕は友人達とデモを行うことに決めたのである。

 あえてデモという手段を使った事に、疑問を抱く方もいるかもしれないが、最近は既存の政治団体や労働組合とは異なった人たちによって、積極的にデモという手法が用いられている。そうしたデモは、必ずしも堅苦しい権利要求のスタイルをとらず、それ自体を祝祭的な表現の場として楽しむ傾向が強い(「ストリートの思想」毛利嘉孝著などを参照のこと)。今回の就活くたばれデモも、そうしたスタイルを踏襲し、パペットや被り物、楽器などを用いた表現を、意識して行ったのである。


「就活くたばれ」のこれから
 就活くたばれデモを企画した動機について、説明させていただいたが、この「就活くたばれ」のメッセージが捉えうる射程というのは、実は非常に長い。例えば、デモに参加したメンバーの中にも、社会的な問題などは抜きに、単純な感情のレベルで、「就活が気に入らない」という人もいれば(=「就活ってムカつく、めんどくさい」、「面接官が偉そう」)、そうした疑問や不満の元に、就活のシステムの矛盾があると認識して、そのシステムの改善を求める人もいる(=「交通費をよこせ」「新卒一括採用なんかなくなれ」)。そして、さらにそうした矛盾や問題点の基盤として、資本主義や新自由主義のあり方について懐疑的になっている人も、数として多くはないが存在している(=「働かねーぞ!」「ダラダラさせろ」)。個人的には、就活に見られるような人間を「人材=モノ」として扱う価値観自体が好きではないし、絶え間ない「自己研鑽」や「自己投資」を強いるような社会のあり方自体に違和感をおぼえている。それは「就活くたばれ」という主張の中でもラディカルな部類に入るのかもしれない。

 このように、「就活くたばれ」の射程は長いからこそ、多義的であり、ぼんやりとしてしまうこともあるかもしれない。この企画を始めた僕としても、動き出してから色々と見えてきた部分があるし、現状をどうすれば変える事が出来るのか、という代案がしっかり見えているわけでもない。ただし、「現在の就活のあり方は問題だらけのものであり、それに不満を持っている者が確かにいるのだ」ということを少しでも提起し、議論の呼び水となったという感触はある。たった20人足らずの若者が、いち地方都市である札幌の街を歩いただけでインターネット上の話題になったのだから、「はじめの一歩」としては成功したのではないかと自負している。これからも、就活の現状について問題提起するため、試行錯誤しながら継続的に行動を起こしていきたいと考えている。
プロフィール

就活どうにかしろデモ実行委員会

Author:就活どうにかしろデモ実行委員会
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2011年2月22日(火)18時~19時
院内集会
会場:参議院議員会館101号会議室
たくさんのご来場
ありがとうございました


活動拡大につき、カンパ募集中

■2010年11月23日
全国4都市(札幌・東京・大阪松山)でデモ行進
■2010年12月27・28日
議席を有する10政党に申し入れ
報告記事1報告記事2
■2011年1月18日
過去最低の内定率発表日に民主党に申し入れ
■2011年2月22日
院内集会

<連絡先>
就活どうにかしろデモ実行委員会
代表・本間篤(ほんま・あつし)
080-1277-3439
syukatudemo@yahoo.co.jp
(@を半角に直してご使用ください)

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